第2章 火使いの暴走・1


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「おい、そこの青年」
 背後から聞こえてきた声に、彼は振り返らなかった。
 もちろん、自分が世間一般的に見て、青年と称される年代であるとの自覚はある。しかし、だからと言ってその一般的な「青年」という呼称が、彼一人を指す言葉ではないのも事実だ。
 そんな言い訳が、昼間の街中ならいざ知らず、まだ旅人も出立しない早朝の、人気のない通り道、彼一人が歩いているこの現状で、通用するはずもなく。当然、その声の主が呼びかけた相手は、彼の他にいるはずもない。
 それでもあえて、彼がその呼びかけを無視したのは、目的地に急いでいたとか、余計なことに関わりたくなかったとか、そんな理由だけではない。
 彼の本能が、切実にその声を無視しろと警告を発していたからに他ならない。

「待てというに、これ」 
 その言葉と同時に、ふわりと彼の首の周りが生暖かいもので包まれた。そう感じる間もなく、ぐいっと、勢いよく首から後ろへと引っ張られる。
「ぐえっ」
 普段の彼からは想像もつかない、非常に残念な呻き声が出たのも仕方ないことだっただろう。何しろ彼は、生温かくて柔らかい何かに首を巻きつかれた上、とてつもない力で引きずられているのだから。
 息ができない苦しさに、首に巻きついている謎の物体に手をやるが、その何かは、するりと彼の手を避け、首により一層密着し、締め付ける。

 水の、魔法?

 つかめないその何かは、どうやら水の塊であるらしかった。水が、まるで意志を持つかのように彼の首に巻きつき、彼を後ろへと引きずっていく。

「まったく、この私のお呼びかけを無視するとはよい度胸だな、青年」
 不機嫌そうな声がすぐ耳元で聞こえて、やっと彼の後退は止まる。それでも、相変わらず水は彼の首へ巻きついたままで、自由はきかず、息苦しいままだ。
「これ、何とか言ったらどうだ?」
 ポン、と頭を何かで軽く叩かれるが、首をがっちり水で固定されているため、その何かを見ることも、声の主をたどることもできず、首が締まっているので、当然ながら声を発することもできない。
 息苦しさに半ば意識を朦朧とさせながら、彼は、何とも苦々しげに、そして、心底申し訳なさそうにしていた師匠の言葉を思い出していた。

 ――多分、君は、私の師匠に目を留められるでしょう。
 くれぐれも、気を付けてください。あの人に常識は通用しませんから。

 なるほど、これが、あの、デイジー・マーシルか。

 彼の師の師匠であり、水の魔法使いのトップ。そして、彼の探し人。
 果たして、この状況でも、王都にたどり着く前に彼女と出会えたことが、良かったと言えるのだろうか。
 そんなことを考えながら、彼、水の魔法使いクロイは、ゆっくりと意識を手放した。







 国中の魔法使いが集まる「理の塔」。
 その一角、大地の塔最上階にある自室の窓辺に立ち、塔長は、顔なじみの鳥に餌をやっていた。
「困ったことになってねえ」
 ちっとも困ったようには見えない顔で、塔長は緑色の鳥相手に独りごちる。
「水が、暴走しているようなんだ」
 餌を啄むのをやめて、鳥が、まるで問いかけるような眼差しを彼に向けた。塔長は、ゆったりとした動作で、鳥の首元を撫で上げる。
「まあ、もう、間に合わないのだけれど」

 理の塔に配置された、4つの封印石。地水火風、4つの塔に、それぞれの力を封じた石が置かれ、塔の守護として機能している。
 正確に言えば、それは、塔の守護ではない。世界の守護だ。
 理の塔には多くの魔法使いが存在し、常に様々な魔法が行使されている。限られた空間の中、性質の違う、威力も異なる魔力が溢れ、混じり合う。
 それは、本来なら非常に危険なことだった。同じ性質の魔力が共鳴し、増幅されたり、違う性質の魔力が反発し、暴発する危険があるからだ。そして、一つの暴発が、さらなる暴発を生み出しかねない。理の塔で行使されている魔法の種類、魔法の量を考えれば、被害の規模は、到底、理の塔内で収まるものではない。
 つまり封印石は、理の塔が世界を害する危険から守るために存在する。それらは、4大魔法使いの力を結集してつくられた守り石で、塔長自身、それを作った後、魔力が尽きて何日も眠り込む羽目となったものだ。
 あの石は、4大魔法使いの代わりとなって、塔を頑強な結界で包み込んでいるのだ。一つ欠けても意味はない。4つそろってこその封印石である。
 そして今、そのうちの一つである水の石が、壊れようとしている。
 それは、世界を守るはずの結界の綻びを示すとともに、4大魔法使いの一人、水使いの異変を示していた。 

「もう、間に合わないな」
 そう思うのは、彼が昔、封印石が壊れる場面に居合わせたからだ。
 封印石の崩壊は止められない。封印石に一端ヒビが入ってしまえば、やがて、石とともに、魔法使いも崩壊する。どんなに手を尽くしても、それは防ぐことはできない。――防げなかったのだ。
 過去に思いを馳せていた塔長の意識を呼び戻そうとでもいうように、緑の鳥が、彼の手を軽くつつく。
「ああ、そうだね。それでも、被害は最小限に留めなければ」
 塔長の手が、もう一度鳥の首元を優しく撫でる。それを満足そうに受け入れてから、鳥はふわりと飛び立った。
 緑の長い尾が、塔長の前をすうっと横切り、緑色の光の粒子がキラキラと舞い踊る。
 塔長は、目を細めて、遠くへ消えていく緑の光を追っていた。







「面白い。うん。面白いな、これ」
 食堂の一角で、片肘をついて気だるげに酒を傾けながら、デイジーはにやにや笑う。

 デイジー・マーシルは、すらりと背の高い、ほっそりとした地味な女だった。
 あごのラインで短く切りそろえた薄紫の髪。綺麗な色だが、ざっくりと切りそろえられているため、どこかみすぼらしい感じさえする。白い肌に、そばかすの散った頬。瞳は大きく、好奇心にキラキラと輝かせている。化粧っ気は一切ないが、唇は淡いピンク色で、ふっくらと愛らしい口元をしている。
 顔立ちはそれなりに整ってはいるのだが、全体的な印象が、何故か地味なのだ。女性らしさが足りないせいかもしれない。
 先ほどから、一樽程の酒を空けているような気もするが、顔には一切出ていない。ここで、頬をうっすらピンク色に染めるようならば、まだ可愛げもあっただろう。逆に、大きなジョッキを傾けている姿は、実に様になっている。
 そんな彼女が眺めているのは、気を失っていたクロイから奪い取った、水色のハンカチ。カルナリスお手製の物だ。何がお気に召したのか、デイジーは先ほどからずっと、ハンカチを矯めつ眇めつ眺めている。

「いい加減、返していただけませんか」
 女性全般には丁寧なはずのクロイが、実にそっけなく言う。
「これ、作った子に会いたい」
 クロイが思いっきり眉根を寄せ、一瞬、押し黙る。
「――理の塔に戻れば、会えるんじゃないですか」
 だから、早く戻りましょう、と続けるが、デイジーはそれには答えない。クロイとハンカチを見比べて、ただにやにや笑っている。
「さて、今日はここに泊まるよ」
「はあ?」
 思わず剣呑な声が出るが、デイジーは全く意に介した様子をみせず、席を立ちあがった。
「ちょっと、待ってください。師匠から、早く戻るように言われているんです」
「おやすみー」
 暢気な声だけ残し、デイジーはさっさと入り口で2階の宿の部屋を取り、上へと上がっていく。クロイも仕方なく部屋を取って階上へ続く。明日こそは連れ帰ろうと、強く決意を固めながら。

 けれどもその決意は、翌朝早々に、もろくも崩れるのだ。







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